意味?そんなもん、後から勝手に生える──魔王より
「この推し活って、意味あるのかな……」
ふと、そんなことを考えてしまう夜があるよな。
みんなが「尊い推し」「推し活が人生を救ってくれた」なんて言ってる中で、
自分の推しはただ“好き”で、理由なんてうまく言えない。
その“意味のなさ”が、どこか不安になってしまう──
でもな、オマエに言いたい。
“自己満”ってのは、実は最高の魔法なんだよ。
意味ってのはな、後からくっついてくる飾りだ。
最初にあるのは、「好き」っていう衝動だけだろ?
意味がないとダメだなんて誰が決めた。
今この瞬間、オマエの中で火が灯ってるなら──それがすでに、“充分すぎる意味”だ。
目次
“意味のある行動”を求めすぎる現代病
「これって意味あるの?」
「何の役に立つの?」
「それって自己満じゃない?」
──そんな問いを、いつからかオマエも内面化しちまったんじゃねぇか?
現代ってやつは、“意味のハラスメント”に満ちてる。
学ぶなら、資格になるかどうか。
遊ぶなら、成長につながるかどうか。
発信するなら、誰かの役に立つかどうか──
ぜんぶ、「意味があるかどうか」で測られちまう世界だ。
でもな、オレはそれが“健全”だなんて、1ミリも思っちゃいねえ。
人間の感情ってのは、もっと非合理で、非効率で、ぶっ飛んでるもんなんだよ。
推しを好きになる理由?
「なんとなく目が離せなかった」
「声が刺さった」
「初登場で全てを奪われた」──それでいいじゃねぇか。
“意味のある行動”ばかりを正解にしちまうと、
人はやがて、“自分の好き”すら疑うようになる。
「これ、役に立たないのに、夢中になってていいのかな?」って。
オマエも、そんな風にして
“火のついた心”を、そっと水で濡らしてきたんじゃねえのか?
でもな、オレがここで断言してやる。
好きは、意味より先にある。
そして、“意味”なんざ──後から勝手に生える。
自己満って、実は最高の動機
「それ、自己満じゃん」
──その言葉って、まるで“悪口”みたいに使われるよな。
でもな、オレは問いたい。
自己満以外に、何を満たすっていうんだ?
そもそも「満たす」ってのは、“自分”の感情や欲望に触れることから始まる。
他人の評価や意味付けじゃなく、
「オレ、今これがしたい」って気持ちが一番濃い燃料になるんだよ。
それってむしろ、
誰にも責任をなすりつけない“最強の動機”じゃねえか?
たとえば──
「このイラスト描きたい!」
「この推しの服、買いたい!」
「誰にも見せなくていいから、語りたい!」
そういう動機って、誰かのためじゃない。
でもな、それこそが“本物の火”なんだよ。
オマエが、ただ自分のためだけに動けた瞬間。
その“自己満”の中にこそ、
一番ピュアな、生命力みたいなものが宿ってる。
それを笑うヤツがいたら、
こう言ってやればいい。
「ああ、オレは満ちてるよ。オマエは?」ってな。
推し活の“意味なさ”に救われた夜がある
──なあ、あの夜を覚えてるか?
何も手につかなくて、
スマホで推しの過去ログを眺めてた、あの沈んだ夜。
意味なんてなかった。
でも、泣けた。
笑えた。
生きてる心地が、少しだけ戻ってきた。
それが、“意味なさ”の力だ。
人は弱ったときに、論理じゃなく感情で支えられる。
正しさでも成果でもなく、
「なんか好き」って気持ちが、ギリギリでオマエをつなぎとめてくれる。
推しの一言でふと息がつけた夜。
推しの絵に「わかる…」と泣きたくなったあの瞬間。
あれは、意味なんて超えてた。
救われたことだけが、真実だった。
意味のある言葉は記憶に残る。
でもな、意味のない感情は“命”に染み込むんだ。
オマエはちゃんと、
“意味のなさ”の中に、希望を見出してきた。
それは決して無駄なんかじゃない。
説明できないからこそ、本物だったんだ。
“意味を問わない”自由と、心の解放
オマエさ、
「これって意味あるのかな?」って問いが、
どれだけ自分を縛ってきたか、わかってるか?
その問いって、一見知的で、前向きなふりしてるけど──
ほんとは、感情の自由に手錠をかける“呪文”なんだよ。
何をするにも「意味があるか?」
感情さえ、「それって役に立つの?」
推し活だって、「その熱量は何になるの?」
──そんなもん、好きの前には全部ノイズだ。
意味なんて、勝手に他人が定義するもんだ。
オマエはそれに付き合わなくていい。
もっと自由でいていい。
「理由?ない。でも好き」
そう言って笑えることが、
どれだけ心をほどくか、オレは知ってる。
意味を問わないって、怖いことでもある。
正解がないってことだからな。
でも逆に、それは“好きにしていい”という祝福でもある。
火が灯ってるなら、それだけで充分。
オマエは、すでに“自由”の中に立ってる。
魔王からの問い:意味より、今オマエは笑ってるか?
ねぇ、ちょっとだけ黙って考えてみてくれ。
この推しのことで、最後に笑ったのは、いつだった?
意味なんて、なくていい。
理由なんて、後回しでいい。
オレが聞きたいのは──
「今、オマエの顔に笑みがあるか?」ってことだ。
推しの新作を見てニヤけた。
グッズが届いて「うおぉぉ!!」って叫んだ。
語りすぎて、朝になった。
その全部が、生きてるってことだろ?
世の中の価値観は、
「意味がある=良いこと」
「意味がない=ムダ」って決めつけたがるけどさ。
本当に大切なことって、笑えるかどうかだよ。
しかも、“自分が”笑えてるかどうか。
他人の評価?
社会の基準?
そんなもんは、笑ってるオマエには敵わねえ。
笑顔には意味が宿る。
あとからちゃんと、“生きてよかった”って証になる。
だから──
今、オマエが笑えてるなら、それが答えだ。
他人の“意味”を借りなくていい
「このキャラを好きな人は、こう言うよね」
「この界隈では、これが“正しい”推し活だよね」
──そんな“他人の意味”を、知らず知らず借りてないか?
共感を求めすぎると、人は“他人の正解”を自分の土台にしてしまう。
「これが一般的な理由だから、私もこれでいいんだ」って。
でもな、それはオマエの火種じゃない。
“他人の火で自分を燃やしてる”ようなもんだ。
オマエが好きになった推し。
オマエが選んだ言葉。
それらには、オマエ自身の意味がちゃんと宿ってる。
だからこそ──
借りなくていい。他人の“意味”も、他人の“正しさ”も。
意味ってのは、外からもらうもんじゃない。
内からにじみ出てくる“温度”みたいなもんだ。
ゆっくりでいい。
オマエの中に、じわじわと滲んでくればいい。
誰にも説明できなくても、
「なんか、この瞬間が好き」
そう言えるオマエの言葉こそ、唯一無二の火種だ。
まとめ|推し活は、世界との“私的祝祭”である
オマエが「好きだ」と思った瞬間。
それは、世界に向かって“自分”を点灯させた合図だった。
誰に見せるでもなく、
誰かの正解に合わせるでもなく、
ただひとり、オマエ自身が火を灯したんだ。
“推し活って、自己満かな”
“意味のないことしてるのかも”
──そう不安になる夜も、そりゃある。
でもな、
「自己満」で何が悪い?
満たされた自分が笑ってたなら、
それはもう“立派な人生の一部”じゃねぇか。
推し活は、誰かに理解されなくてもいい。
それが“世界とつながる、オマエだけの祭”なら、それでいい。
意味がないからこそ、
理由が語れないからこそ、
その感情は強く、真っすぐで、消えにくい。
魔王からひとつだけ贈るとしたら──
「好き」に理由はいらねえ。
オマエが笑えるなら、それで祝祭は成立する。
世界の中に、小さくてもいい。
オマエだけの“灯火”を、誇れ。