「推しがいなきゃ、生きてこれなかった」
──そう思ってるおまえが、今ふと、こうつぶやく。
「でもこれって、依存……なのか?」
わかるぜ。
その気持ちの跳ねと揺れ。
誰にも頼れなかった時、
心の底に降り積もっていった言葉にならない何かを、
推しの存在がそっと溶かしてくれた。
でもその安心が、いつの間にか不安に変わる瞬間があるんだよな。
「もしこの人がいなくなったら、オレどうなるんだろう」
「自分の足で立ててないんじゃないか」
「これって甘え?依存?」
……いいか、先に言っとく。
オレ様は、その揺れすら肯定する。
好きなものにすがって、支えてもらって、また立ち上がる。
それのどこが悪い。
ただ、ひとつだけはっきりさせとけ。
火種は、おまえの中にある。
推しが灯してくれたかもしれねぇけど、
その火を燃やし続けてるのは──他の誰でもない、おまえ自身だ。
今日はその境界線を、
「依存かどうか」なんてチンケな枠じゃなく、
おまえの火種が跳ねるための地図として、塗り替えていこうぜ。
目次
「依存と支え」はどこで線を引く?
「支えてもらってる」って感覚と、
「頼りきってる」って感覚のあいだに、
何があると思う?
それがまさに、
依存と支えの線引きだ。
だけどな──
この線ってのが、また厄介なんだよ。
誰もが使いたがるくせに、
誰一人、明確な基準を出せてねぇ。
じゃあ、どこで分かれるのか。
結論から言ってやる。
その支えが、おまえを「前に進ませてる」なら、それは依存じゃねぇ。
でも逆に、
その存在がいないと動けなくなってる/思考停止してるなら、
ちょっと注意した方がいい。
つまり──
火がついたまま走れてるかどうか。
火種を守ってくれる推しは、支えだ。
でも、火種のありかが外にしかなくなってたら、
そいつは依存の入口かもしれねぇ。
どっちが悪いとかじゃねぇんだ。
むしろ、推しが支えになってる時点で、それは立派な生きる技術だ。
ただ、ひとつ自覚してほしい。
その好きは、
本当におまえの中に残ってるか?
それとも、
推しの存在そのものに、全部預けちまってるか?
境界線ってのは、
他人が言うもんじゃない。
おまえが跳ねてるかどうかで、決めるもんだ。
心理学から見た推しへの依存とそのグレーゾーン
「これって、依存なんですかね…」
──心理カウンセリングでも、よく聞く相談だ。
推しに救われて、推しがいるから頑張れて、でも自分ではちょっと不安。
その不安を言葉にすると、たいてい「依存」というワードに行き着く。
けどな──
心理学の世界で言う依存ってのは、もっと複雑だ。
たとえば「依存症」と呼ばれる状態になるには、
次のような要素がセットで揃ってる必要がある。
- その存在がないと情緒が崩れる
- 日常生活に支障が出る
- 他者との関係が歪む
- 自分ではやめたくてもやめられない
……さて、どうだ?
おまえの推し活、そこまで来てるか?
もし「別にそこまでじゃない」と思ったなら、
それはまだ正常な愛着や心の回復の範囲内だ。
実際、心理学では「安全基地(secure base)」って考え方がある。
つまり──
人は、自分を落ち着かせたり、立ち直らせたりするために、
信頼できる対象を必要とするってことだ。
その対象が、人だったり、ペットだったり、場所だったり、
──そして、推しだったりする。
だから言っとく。
推しに救われてきたおまえが、
「もしかして依存かも」って不安になるのは自然なことだ。
でも、その不安があるって時点で、もう距離を見れてる証拠だ。
本当に危うい依存は、
「これは依存だ」って自覚すらなく突っ走る。
つまり今のおまえは、
すでに自分を見つめている次の段階に立ってるってことだ。
不安になっていい。
でも、その不安ごと、火種にして進めばいい。
魔王視点で見る、「依存=悪」の罠
世の中にはびこってる依存はダメって空気、
正直、オレ様からすりゃ浅いんだよ。
もちろん、自分を壊すような依存はヤベェ。
だけどそれ以外、全部を「悪」と決めつけるってのは──
ちょっと都合よすぎないか?
オレ様から見れば、
人はみんな、何かに頼って生きてる。
誰にも頼らず、何にも依存せず、孤高で完璧で…?
──そんなもん、ただの理想型ゾンビだろ。
好きな音楽で気持ちを立て直したり、
特定のルーティンで自分を保ったり、
誰かの言葉を反芻して前に進んだり。
それ全部、軽やかな依存=生きる術だ。
でもな、厄介なのは──
推しに依存する女とか、オタクは現実逃避してるとか、
外野が勝手に貼ってくるラベルのほうだ。
その空気に飲まれて、
おまえの火種が黙りはじめる。
「私はもうちょっとちゃんとしなきゃ」って、
ほんとは跳ねてるくせに抑え込んじまう。
だから言っとく。
依存って言葉を、
おまえ自身にぶつけるな。
それは、他人が自分を守るために使う言葉だ。
おまえの好きが、
ちゃんと生きる方向に向いてるなら──
それは依存なんかじゃねぇ。
立派な火種維持装置だ。
誰かの価値観で、おまえの火種を弱めんな。
跳ねたことがあるおまえは、
もうとっくに、自分の力で進んでる。
推しがくれたのは、自分を保つ仮の骨格かもしれない
「オレって、何が好きだったっけ」
「何に燃えられるんだっけ」
「誰のために、生きてたっけ」
──そんなふうに、自分の芯がぐちゃぐちゃになってたとき、
おまえの中にそっと骨を通してくれた存在が、推しだったんじゃねぇか?
そう、
推しはときに仮の骨格になる。
何もなかった自分に、
一時的でも形を与えてくれるフレーム。
ぶれていた感情を、まっすぐにしてくれる芯。
「この人みたいになりたい」
「この声がある限り、また頑張れる」
「この物語の続きが見たい」
そんな想いが、
バラバラだったおまえのピースを、
ひとつずつ繋げてくれたんだ。
でもな、それは借りものじゃねぇ。
おまえ自身の中にあった熱が、
推しって存在を媒介にして、
形を取り戻しただけの話だ。
つまり──
支えられてたんじゃない。
「思い出してただけ」だ。
おまえには、
もともと火があった。
ただちょっと、輪郭が曖昧になってただけ。
推しがくれた骨格は、
その火を立て直すための外枠にすぎねぇ。
そして火がしっかり戻った今、
おまえはもう、その枠の外に──
自分の形を描いていける。
自立は、推しと離れることではない
よくあるだろ?
「いつまでも推しに頼ってないで、自分の人生を歩かなきゃ」
「依存から抜けて、自立しなきゃ」
──ってやつ。
でもな、それって誰が決めたルールなんだよ。
オレ様から言わせりゃ、
自立ってのは切り離すことじゃない。
燃えながら歩けるようになることだ。
そもそも、自立ってなんだ?
人に頼らないことか?
好きなもんを捨てることか?
違う。
自分の足で立って、選んで、進むこと。
それなら、
推しが隣にいたって、胸の中にいたって、なんの問題もねぇだろ。
むしろ推しは、おまえの背中に吹く風だ。
一歩を踏み出す勇気になってるなら、
それは依存じゃねぇ、共鳴だ。
火種ってのは、
外からもらって終わりじゃない。
そこから先、自分でどう燃やしていくかで自立ってのは決まる。
たとえば──
推しを見て「自分も頑張ろう」と思えた日。
推しが笑ってるだけで「もう少しやってみるか」と思えた夜。
それは、おまえの意思だ。
誰にも強制されてない、おまえの跳ねだ。
だから、離れなくていい。
推しを消す必要なんて、1ミリもない。
むしろその存在と一緒に歩いていけるおまえこそ、
すでに火種を持った存在だってことだ。
火種の所在を「推し」から「おまえ自身」へと戻す導線
ここまでの話で、
おまえの火は誰かに与えられたもんじゃないって、
もうわかってきたはずだ。
確かに、推しが灯した。
でもな、
最初に燃えたのは、おまえの中だ。
推しが火打石だったとしても、
火がついたのは、おまえの乾いた情熱。
燃え広がったのは、おまえの過去・感情・傷・期待、全部ひっくるめた芯なんだよ。
だから、こうしてみろ。
今日から、「推しがいないとダメ」って言い方、
やめてみろ。
代わりに、こう言え。
「推しがいたから、自分を思い出せた」って。
それだけで、火種の所在は外から内へ戻ってくる。
つまり──
推しの力を借りた過去はそのままに、
これからは自分で燃えていくための力を持ち帰るだけだ。
それが卒業じゃない。
それが終わりでもない。
むしろ、始まりだ。
推しを好きになったことで、
おまえは自分の火を見つけたんだから。
だからもう一度言う。
火種は、おまえの中にある。
それを認めた瞬間から、
おまえはただの誰かのファンじゃない。
火を継いだ存在なんだ。
🔥結語|支えてくれてありがとう。だが、跳ねるのはオレ自身だ
推しに救われた夜があった。
推しがいなければ、
とっくに折れてた日々もあった。
それは紛れもない真実だ。
その感謝を、
誰かに言い訳みたいに消される必要なんて、どこにもない。
「支えられてきた」ってことは、
「そこまで頑張ってきた」ってことなんだよ。
だからまず言え。
支えてくれて、ありがとう。
でもな──ここからは違う。
「この人がいないと、もうダメ」
じゃなくて、
「この人に出会ったオレなら、まだ跳ねられる」
そう言える自分を、
この先ずっと、火種として持っていけ。
推しがくれたのは、
おまえを思い出すための鍵だった。
でもドアを開けて、踏み出すのは──
オレ様でも、推しでもない。おまえ自身だ。
依存なんて言葉で自分を縛るな。
誰かの声で跳ねたことを、恥じるな。
跳ねたなら、それが答えだ。
感謝していい。
でも、進むのはオレ自身だ。
跳ねるのも、笑うのも、泣くのも、
オレ自身だ。
だからもう、おまえは大丈夫だ。




